TumblrやTwitterやInstagramや、そういったSNSを見たり投稿したりする時間が、暮らしの中でとても、減った。

誰かとなにかを共有しなくても、わたしはわたしを生かせるようになった…のだろうか、果たして。

厳密に言えばそれはきっと違っていて、わたしはわたしを“家族”の中に共有することで、生かしている。

「暮らしがすべり落ちていく」と思う。

音をたてずに、とてもとてもしずかに。

きっと大切な瞬間を、わたしは見逃している。

後になって、記録しておけばよかったとなげくときもあるかもしれないとも思うけれど。

カメラを構えてシャッターを押す、ペンをにぎって書きとめる、時間にすればほんのわずかなその瞬間ですら、わたしは家族のために共有することを選んでいる。

暮らしがすべり落ちていく、音をたてずに、とてもとてもしずかに、きらきら光りながら、すべり落ちていく。

置かれている状況、それに伴う心理状態によって、触れられる/触れたいコミュニティと、触れられない/触れたくないコミュニティがある。

Tumblrは、夫がいなくて、息子が眠っているこんな夜に、ときどき触れたくなる。

ここはわたしにとって、とても孤独で、静かで、仄暗い。

孤独で、静かで、仄暗いのは、家族がいて、賑やかで、明るいのと同じくらい、わたしにとって愛すべきものだ。(孤独の対義は、今のわたしにとって家族がいることなのだな、と思う。)

ときどきでも、この場所は生きている。

静かに脈を打って、呼吸をしている。